あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。
イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。
信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。
この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、
あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。
そうすれば、大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。
変らない真実をもって、わたしたちの主イエス・キリストを愛するすべての人々に、恵みがあるように。
こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。
神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。
わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。
イエスは彼らに言われた、「神があなたがたの父であるならば、あなたがたはわたしを愛するはずである。わたしは神から出た者、また神からきている者であるからだ。わたしは自分からきたのではなく、神からつかわされたのである。
神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、
キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。
パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。
言いつくせない賜物のゆえに、神に感謝する。
神はまた、わたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜わったのである。
さらに、ふたりを自分の家に案内して食事のもてなしをし、神を信じる者となったことを、全家族と共に心から喜んだ。
わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。
もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。
わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
その言葉は、はなはだ美しく、 彼はことごとく麗しい。 エルサレムの娘たちよ、 これがわが愛する者、これがわが友なのです。
もし主を愛さない者があれば、のろわれよ。マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)。
女のうちの最も美しい者よ、 あなたの愛する者は、ほかの人の愛する者に、 なんのまさるところがあるか。 あなたの愛する者は、ほかの人の愛する者に、 なんのまさるところがあって、 そのように、わたしたちに誓い、願うのか。
わが魂の愛する者よ、 あなたはどこで、あなたの群れを養い、 昼の時にどこで、それを休ませるのか、 わたしに告げてください。 どうして、わたしはさまよう者のように、 あなたの仲間の群れのかたわらに、 いなければならないのですか。
また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。